レッジャーネ:戦闘機を基に設計された車

2019年3月24日Ruote Leggendarie Production | イタリア

 

あまり知られていないが、イタリアのモーターバレーの中、レッジョ・エミリアの町には、その地方のエンジン技術の発展にとても重要な役割をしていた会社があった。レッジャーネと言う名前でも知られている“Officine Meccaniche Italiane – Reggiane”である。第二次世界大戦の終わり頃、この会社の幹部らは先を見据えて車の開発を始めた。その車は革新的な航空技術を取り入れ、アルファロメオのライバルにもなろうと言う程のものであった

 

レッジャーネの歴史

この会社は1901年に鋳物工場として生まれ、その後、機械部品、鉄道資材、パスタ製造工場の機械を製造することに特化して成長した。そして1935年にカプローニグループに買収された。徐々に拡大し、ピーク時の1942年には従業員数11200人に達し、最新鋭の戦闘機、爆撃機、航空エンジンが製造された。当時、イタリアで売上高4番目の会社であった。

レッジャーネの航空機RE2005 RE2000を進化させて生まれた。レッジャーネが製造した最高の戦闘機で第二次大戦中使用された。

1944年1月8日大規模な連合軍の爆撃により工場は完全に破壊されてしまった。戦後は、2007年に閉鎖されるまで、電車の製造を続け、また港湾ターミナル用大型クレーンも製造した。近年アーカイブが作成され、技術的な資料も保管されている。現在、工場の建物のいくつかが修復されようとしている。

第二次世界大戦後多くの社員がレッジャーネを去り、働いていた時に身につけたノウハウのお陰で、重要な会社の発展に貢献したり、新しい会社を立ち上げた人たちがいたのは興味深いことで、そのうちのいくつかの会社は今でも重要な会社として残っている。例えば、ランプレーディ氏はエンツォ・フェラーリ氏の下で働き、1952年と1953年にフェラーリがF1で初めて勝利する時に使っていた最初のエンジンを設計した。その後フィアットのエンジンデザイナーとして有名になった(ランプレーディDOHC参照)。フェラーリで働くようになった元レッジャーネ社員、サルヴァラーニ氏とロッキ氏も忘れてはならない。フォルギエリ氏を支えていた素晴らしい技術者たちだ。アルファロメオに行きレース部門のトップに就任したアレッシオ氏。1950年と1951年に初めてチームを優勝に導いた。

 

車のデザイン

第二次大戦中のレッジャーネの熟練の技術やノウハウは、当時、航空と言う最も最先端の分野を取り扱っていていたこともあり、芸術的レベルのものであった。レッジャーネの知識は、アメリカの技術を採用していたため、イタリアのフィアットやマッキの様な他のライバル会社よりも革新的であった。

レッジャーネ社がデザインした車のレンダリング

先見の明に加え、戦争が終わり航空機の製造は終了するであろうと言う考えにより、工場は連合軍の攻撃によりほとんど瓦礫と化していたが、アレッシオ氏は、必要な商業面・生産面をよく分析しながら、車をプロジェクトし始めていた。

戦闘機RE2000の前に立つアレッシオ氏

長距離の移動には飛行機が好まれていたが、彼は次の様に考えた。 『戦時中、車は資源として没収され、残っている車は時代遅れのもの、生活のための全ての産業は停滞しているので、戦争が終われば、車の需要がかなり高くなる。独占的な関税制度が改正され、自由な経済が戻れば、自国のための車を製造できるようになり、輸出もできる様になるだろう。政府が公共交通機関や高速道路に投資をするようになれば、さらに需要が高まるだろう』

ライバルについてもより深い部分の分析もしていた。『フィアットだけが低価格の車を製造できるかもしれない。なぜなら生産には、すぐには作り上げられない大きな製造システム、販売ネットワーク、カスタマーサービス、都合のよい分割払いシステムが必要だからだ。』

実際のところ、1943年にアレッシオ氏はエンジン部門のトップであったデル・クーポロ氏に『中型で、高い性能だが、自動車税が安くなる範囲のパワーで、見た目が良く、イタリア製の軽合金を使った・・・』車を作ることを指示していた。これにはアルミと航空機製造で得たノウハウを同時に上手く使うことができた。

エンジンは、4気筒1750ccの水平対向エンジンで70馬力、遠心圧縮機内蔵を計画していた。この種のエンジンは、低重心、低重量、小さいサイズとバランスの良さから選ばれた。アレッシオ氏は、このプロジェクトで航空エンジンの運用で得た経験や知識を使うことの大切さを強調した。航空エンジンの分野で、レッジャーネは、二重星形の14気筒とガソリン直噴エンジンのV12とW18を製造していた。それらのエンジンは、高高度のパフォーマンスを実現するためにコンプレッサーを備え、最大排気量40,000cc、1600馬力であった。

レッジャーネの車のパワーはライバルのビュイック、クライスラー、アルファロメオのエンジンにも相当し、低気筒と軽量も強みであった。これはidronalioやperalumalの様なアルミの軽合金のお陰でもある。同じ軽合金がシャシーやボディーにも使われる予定であった。大部分は戦闘機RE2000の翼を作った際に使ったのと同じ技術を使ったスポット溶接が使われた。加えておくと、最初にアルミのフレームがヨーロッパで車に使われ始めたのは80年代である。

シャシーはバックボーン型を応用した形で、飛行機の翼の縦通材に使われるCの形の枠を溶接し、また表面には飛行機で使われる技術が使われていた。一方エンジンは前方にあり、カンチレバーとなっている。軽い重量と構造的な強さの利点は驚くべきものであった

航空技術を応用したシャシー

車両の重量は1100kgで、ライバルの車1400kg -1500kgよりも軽かった。そして製造にかかるコストが低く、ギアも3速だけで足りた。

ブレーキは、4輪全てが油圧制御式であった。

ボディーの分析の部署では、会社に既にあるプレスの機械を使う予定にしていた。その機械は変更する必要なしに使えると考えられていた。屋根の2/3にプレキシグラスを使うことは、広い窓を確保する新しいソリューションであった。同時に大きなプレスがなければ作成できない屋根の構造上の問題を簡単に解決することもできた。

取り入れられたおもしろいソリューションとしては、中央柱なしのボディー、乗車空間は2枚の軽金属のメタルシートでできており、サイレントブロックでシャシーと接続されていた。このことで、悪路の振動を軽減し、タイヤの働きも加わり乗車している人の快適性が増すと考えられていた。.

四輪全てにあるサスペンションは、A型アームとトーションバーと油圧ダンパーを組み合わせた横方向のスタビライザーによりできていて、採用された技術レベルとしては、当時最も革新的と位置づけられる車の一つであった。

前、後のサスペンション

開発の次の段階は、下記の5つであった:
1. シャシーの製造
2. ボディーの製造
3. 各部位の結合とトランスミッションの取り付け
4. 安全率4のシャシーとボディーの静的テスト
5. ローラー上での動的テスト

アレッシオ氏はエンジンの設計については、『リスクも未知のものも何もない』と言っていたことからも分かる様に、何も心配していなかった。

内装についても、『私たちの鉄道部門の熟練労働者がその技術とセンスの良さを発揮してくれた』と。実際、内装は快適性とエルゴノミクスに特に注目した作りとなっていた。床は構造的に剛性を高くするために波板が使われた(レッジャーネの戦闘機の翼の様に)。またエアコンも取りつけられる予定であった。ヨーロッパでは60年代にエアコンが取りつけられ始めた。

デル・クーポロ氏の1943年頃の日記には、開発段階に日々仲間たちに課した課題について書かれていた。その中にはロッキ氏やランプレーディ氏の名前もあり、彼らは後にエンツォ・フェラーリ氏の車の設計で重要な役割を果たした。

車の開発には、エンジニアのピッカルディ氏やモンフレディーニ氏も参加していた。

 

レガシー

戦争が終わり、地元の政治家たちの判断が車のプロジェクトの中止をやむなくさせた。しかし数年後、カプローニグループは類似した車Cemsa F11のプロジェクトを発表した。カンチレバーフレームで支えられた水平方向エンジン等、レッジャーネの車にとても似ていたが、航空からアイディアを得たシャシーではなかった。その後、とても良く知られた車、ランチャフラヴィアに、レッジャーネの車とまったく同じ構造が現れた。そこにはまたフェッシア氏の名前があった。

レッジャーネについての詳しい情報は下記参照。 https://www.archivioreggiane.it




 

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