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Ritmo とリトモ (2/2) 2021年11月14日 浩美 | 愛知(日本     前回の記事でフィアットリトモに乗るリトモさんの名前の由来やリトモを手に入れるまでのことなどについて話したが、今回は彼女の愛車リトモの修理やメンテ歴、これから彼女がリトモと一緒にやりたいことなどについて書いてみたい。   [envira-gallery id="19607"]リトモを買って最初の一年ぐらいは故障が多く、その都度修理やメンテナンスをしていたが、現在はかなり快調らしい。どの様な修理やメンテをしたのか聞いてみたところ、主なものだけでも20カ所ぐらいあったとのこと。私ならそこで早くもくじけてしまいそうだが、ここも彼女のリトモ愛でクリアー。 彼女がどんな修理やメンテナンスをしたのか紹介してみよう。 ・ラジエーターからのクーラント漏れ →オイルクーラーをワンオフで作り直す ・燃料タンクと給油口のつなぎ目から燃料漏れ →ゴム類の交換 ・燃料ポンプ故障(3回)→2回は純正の新品燃料ポンプに交換するがどちらも半年程で故障 →日本産NISMOの電磁式燃料ポンプに交換 ・キャブレターの息継ぎ →オーバーホール+ジェットの清掃 ・ラックアンドピニオン →新品に交換 ・テールランプが劣化で割れる →リプロ新品に交換 ・プラグコード作り直し →汎用品を加工し取付 ・走行中にヘッドライトのガラス面が接着の劣化で落ちて割れる →ランチアデルタ用のヘッドライトを取りつけるも、同じく接着の劣化で落ちて割れる →大きさは違ったが小糸製のヘッドライトのガラス面だけをシリコンで埋めるなどして使用 ・デスビローターからオイル漏れし、失火しエンジンストップ→デスビのシール交換 ・フロントライトを消費電力を抑え、なおかつ明るくするためLEDに換装 ・純正ワイパーでは水を切る面積が狭かったので、プレードごと大きなワイパーに交換 ・三角窓の錆と変色していたものを自分で塗装 ・マフラー排気漏れ→溶接し塞いだがサイド排気漏れしているのでマフラーを作り直す予定 ・ドア内の骨組みが折れている→両方ともやり直して補修 ・本来は美しいプレスラインだが、落ちていた→ドアのチリ合わせをし、落ちていたプレスラインを合わせ直した ・リアのフロアの錆→錆び止め、鉄板を当てて溶接後、塗装 ・左右ドアの小さな錆→内張を剥がし、錆び止め後塗装 ・オーディオの配線の引き直し ・リアの窓から車内に水が浸入→窓枠のゴムを新品に張り替え ・ステアリングギアボックス交換 ・タイロッドエンド左右交換 [envira-gallery id="19594"]ここまでが主なもので細かいものまで挙げるともっとあるそうだ。リトモオーナーの中には、自分もこれやったよと言われる方もいるかもしれない。 また日常的なメンテナンスで彼女がやっているのは、 ・2000キロ毎のオイル交換 ・季節の変わり目のキャブの調整 ・必要に応じたアライメントの取り直し ・各種消耗品の残量確認など 将来的には、時間も費用もかかるが、ハーネスの引き直し、ボディーの補強(スポット)、エンジンOH、ミッションOHなどを考えているとのこと。 [envira-gallery id="19618"]彼女がいつも信頼してリトモを託している工場の方は、お父様の弟子だった方で、リトモを預ける際には、自分でできることを少しでも増やすために、できるだけその場にいて教えてもらえいながら、手伝える部分は手伝っているそうだ。オイル交換、タイヤ交換、簡単な電装系は、自分で充分こなせるらしい。 彼女のリトモはイタリアのトリノで13万キロ走行した車両で、縁あって日本のリトモさんの元にやって来た。彼女自身はまだ日本から出たことはないが、いつか彼女のリトモが走っていたトリノを訪れて、トリノがどんな場所なのか、石畳が本当にあるのか、今も古い車が街中を走っているのか、リトモがどんな所を走っていたかなど確かめたいと思っている。またトリノ時代のオーナーにも日本でリトモが元気に走っていることを伝えたいとも。さらに、時間や費用が許せば、いつか彼女のリトモをイタリアに連れて行き、イタリアをドライブしたいとの大きな夢も抱いている。どれも彼女が実現できた時のことを想像しただけでも、自分のことの様に嬉しく温かい気持ちになる。その際には、本場イタリアの様々な文化に触れてみたいとの彼女の希望の実現に加え、イタリアの大きな魅力の一つでもある、“人と人とのつながり”も間違いなく体感してもらえるだろう。 [envira-gallery id="19636"]車全般が好きなリトモさん、どのような車に興味があるか聞いてみた。機能面を抜きにして車として興味がある車には、イタリアの車が多く、ランチアデルタは小さい頃からなじみ深く、見た目、特にリアの姿が大好きで、手に入れたいとまでは思わないが機会があれば運転してみたいと。日本車であれば、トヨタスープラA70型やトヨタソアラGZ20が好きで、今の車には見られないコスト度外視の装備やドアを閉めた時の重厚感のある音がいいらしい。また旧車全般のなんとも言えない車内の匂いが、かつて走っていた頃のことを感じられ素敵な気持ちになるので、大好きだそうだ。 リトモさんはリトモで日本国内のイタリア車の集まるイベントには積極的に参加していて、賞も何度か受賞したとのこと。そのような場を通じて、人脈も広がり、様々な情報交換ができるようになった。一度リトモに乗るリトモさんと聞けば、印象に残ること間違いなしだ。 今では、リトモを通じて知り合った人のまた知り合いと言う風につながりが広がり、日本国内だけでなく、イタリア、イギリス、アメリカの多くの人たちと友だちになれた。彼女はこの様なつながりの縁を大事に感じ、新しい人たちにもつなげたいと思っている。 [envira-gallery id="19641"]彼女のお父様はリトモでレースによく参戦していたと聞いたので、彼女もリトモでレースに参加したりはしないのか聞いてみた。彼女自身何にでも挑戦したい性格で、日本のレースのためのライセンスの取得、ヘルメット、スーツ、シューズ、グローブも準備し、4点式シートベルトも装備していて、2020年7月の兵庫県のハチ北ラリーに参加する予定にしていたが、仕事やコロナウイルスの影響で、参加できなかったらしい。今後、状況が許せば参加するとのこと。ぜひその時の彼女とリトモの雄姿も見てみたい。 彼女の『リトモはコレクションとして大事に保管しておくのではなく、車として使い、それも長く乗るのを目標にしている』との言葉どおり、通勤にも、週末や休暇の旅行にもリトモを使っているそうだ。二日で800kmの旅行、あてもない2〜300kmのドライブ、キャンプや釣り、美食探しの旅に行くにも一緒だ。一カ所まだリトモと一緒に行けていない場所がある、と彼女。お父様のお墓参りにはまだリトモとは行っていないので、時間を見つけて一緒に行き“リトモがリトモに乗って来たよ”と伝えたいそうだ。きっとお父様はとても喜んでくれるに違いない。 リトモ愛溢れるリトモさん、今後のリトモとのレースでの活躍だけでなく、リトモの次に彼女が選ぶ車もとても気になる。 [envira-gallery...

Ritmo とリトモ (1/2) 2021年2月14日 - 浩美 | 愛知(日本)     ある日、フィアットリトモクラブイタリアの会長とコンタクトを取っていたデニス(ウェブサイトRuote Leggendarieの創設者)から、そのクラブには日本人メンバーがいるらしいことを聞いた。それだけであれば、熱心な方もいるものだ、と言う程度の感想を持っただけだっただろう。さらに聞いていると、そのメンバーは女性、それも名前がリトモと言うらしいとのこと。それを聞いて私が最初に言ったのは『日本でそんな名前の人聞いたことがない』であった。きっとクラブの人たちに覚えてもらいやすい様にニックネームを使っているのだろう、などと勝手に想像しながらも、もしかして本当に存在する?と思い、半信半疑でネットで検索してみた。すると、彼女と彼女が乗る車フィアットリトモについての記事を見つけた。本当に日本にリトモさんと言う女性は存在していて、彼女がリトモクラブイタリアの会員なのだ。早速クラブ会長から教えてもらった彼女の連絡先にメッセージを送ってみた。するとすぐに返事がありそこからリズム良くやりとりが始まった。   [envira-gallery id="18773"]彼女から聞いた彼女自身のこと、彼女の車のこと、またご家族のことなど、ユニークで興味深かったのでここで2回に分けて記事にしてみたいと思う。 フィアットRitmoはイタリアで1970年代後半から80年代後半にかけて作られ、ファミリーカーとして大変多く普及していた。私の義父も短い間ではあったが、乗っていたらしい。では、どうして日本に住む女性の名前にイタリアのそれも一昔前に普及した車の名前が付けられたのだろう。 リトモさん(正確には璃萌さんだが記事では『リトモさん』もしくは『彼女と』書くことにする)は、二十年程前に4人姉妹の4番目として、自動車整備業を営む一家に産まれた。父は(現在お父様は逝去されている)この家業の傍らリトモ、ランチアデルタ、124スパイダーらの愛車でラリーにも熱心に参戦していたらしい。 [envira-gallery id="18786"] 小さい頃の両親は特に彼女に車のことを熱心に教えるなどと言うことはなかったが、常に車に囲まれている生活だったので、彼女は自然と車に関心を持つ様になっていた。小さい頃は車、新幹線、電車、鉱石、宇宙など一般的に男の子が好みそうなものが好きだった。車で外に出かけた時には近くを走っている車の名前を当てるゲームを一人でやっていたと言う。車もそうだが、大きな働く車全般が好きだった。おもしろいエピソードとして、保育園には母の運転するランチアデルタ16...

停滞からの復活 2020年10月31日 ガエターノ | シドニー (オーストラリア)     長いこと忘れ去られていたランチア・プリズマの物語は、昔感じていた運転の醍醐味を感じられなくなって久しい頃に、プロジェクトカーを探すことから始まった。たくさんのモーターショーを見たり、古い車がかつての栄光を取り戻す様にレストアされるのを見ていたら、いつのまにか私も探究心に駆られていた。  [envira-gallery id="17036"]   ずっとお気に入り   私のイタリアンクラシックカー好きは、父の友人で上司でもあった人がアルフェッタ・セダン・クアドリフォリオ・オーロを買った時に始まった。機会があるごとに洗車を買って出た。そうすることで座席に座ってイタリア車を運転するのがどんな感じなのか体験できた。 私の父もクラシックカー好きで、大きなV8エンジンのフォードやホールデンズ(GM)が流行っていたオーストラリアに住んでいる間に、多くの車を売り買いした。私はアメリカンクラシックカーのV8のエンジン音と見た目が好きだった。私は若すぎて、それらの車は速いがヨーロッパのセダンの様には乗りこなせないことを理解できていなかった。  [envira-gallery id="17222"] 1984年に私の一家はイタリアに戻って来た。そしてそれは始まった・・クールなハッチ、セダン、スクーター。免許を取得してすぐにアウトビアンキA112アバルトを運転し始め、とても気に入った。パワーのある小さなハッチバック・・でも、それはまた別の話だ。イタリアで2年過ごし、フィアット127、アルファ・スッド、ランチア・フラヴィアなど多くのメーカーやモデルを運転した後、いつか自分が運転したいという車が何なのか分かった。その頃フェラーリ288GTO、ポルシェ959、アルファ75、フィアット・ウーノ・ターボ、ゴルフGTI、205GTI、ルノー5ターボ、それに有名なランチア・デルタなど多くのモデルが発表された。なんという時代だったのだろう。...

ランチアスポーツグループ6(LC/1) 2020年6月2日 Ruote Leggendarie Production | イタリア   [blockquote text="『私は常にレースのあらゆる面が役に立つと考えてきた。この場合のレースとはラリーのことだけでなく、サーキットや公道でのレースに関することも含んでいる。レーストラックでの経験はラリーではできないしその逆も然りだ。あらゆるシーンに関わることでラリーでの競争力を手に入れることができ、そして目指していた結果が得られる。レーストラック上でも私たちは好成績を残した。全てのパワフルなポルシェを抜いてニュルンベルクで勝利したのを覚えている』 チェーザレ・フィオリオ" show_quote_icon="yes"...

IRRESPONSIBILITY 2020年2月29日 - ジョルジオ | マントヴァ(イタリア)     あなたたち(私たち)ビンテージカー好きは、公言していなくても実際のところ二元論の中にいることを確信している。パブで真剣に長々と議論されるネタになることでも見て取れる。  [envira-gallery id="13173"] フェラーリ好きがいたり、ポルシェのことだけを聞いていたい人もいる。マラネッロのレッドの高飛車な魅力、数々の夢、フェラーリのオーナーをあっという間に近寄りがたいエリートに導くパフォーマンスはいいよね。いや違う、フェラーリは目立ちたがりの人の車で、信頼できなくて、『使えない』。911のクラスの方が断然いい(ダンラムな例だが・・)。ショッピングに行ったり、映画を見に行ったり、日曜にトラックデーでのレースに参加するのにも使える、それに週末のドライブにも。全部のこれらのことを一つの車でやれる。  [envira-gallery id="13213"] すぐその後に、スパイダーとクーペの議論が!私は個人的にはどちらかというとクーペの方が好きだ、選択しないといけないとすれば間違いなくクーペを選ぶ。クーペの方がよりスポーツカーっぽく、より自分が楽しめる車だ。このタイプの車を選ぶ人たちは、私が考えるに、自分のために選んでいると思う。一方スパイダーを選ぶ人たちは、『見て欲しい』から選ぶ。エンシュージアストの間の、どれがクールなのかの論議がどんな感じかは、ご存知のとおりだ。   こんな話はいつまでも続けられる。ドイツ車からイタリア車か、セダンかステーションワゴンか、乗用車かSUVか。そこから詳細についても、前輪か後輪駆動か、マニュアルかオートマか、グレーかカラフルな色か。議論には終わりがない。あらゆることについて議論できる。  [envira-gallery id="13248"] 車の歴史の中ではあるバトルがあった。勝者はなしだが、何よりもイタリア車のデザインの素晴らしさを世界に知らしめるものであった。ピニンファリーナかベルトーネか?ほかのデザイナー贔屓も許してくれるだろう。イタリアには本当にたくさんの素晴らしいデザイナー(ザガート、トゥーリング、カスターニャなどなお)があったが、ピニンファリーナかベルトーネが最も有名で話題となったデザイナーだったと思う。   私たちは壮大な戦いについて話をしている。競っていたのは車のデザインをしていた二つのアーティスト集団だった(過去形で話をしないといけないのが悲しいが)。生産ラインに乗せられる車であったりプロトタイプであったり。しばしば、すぐ近くのトリノのオートショーで発表された。この二つのアトリエが引いたデザインは、トレンドのテイストにあった生産するためのデザインに常に描き変えられていた。  [envira-gallery...

アルファロメオミュージアム、アレーゼ:イタリアンスタイルのエレガントさとスピード 2019年12月25日 - Ruote Leggendarie Production | イタリア   アルファロメオミュージアムがレストアされ2015年に再オープンした。ミラノ郊外のアレーゼ、かつて歴史的な工場があった場所の敷地内にある。 展示は航空機の星形と直列型のエンジンのコレクションから始まる。第二次世界大戦中の製造に特に焦点が当てられている。  [envira-gallery id="11659"][envira-gallery id="11691"][envira-gallery...

雑誌ジェンテ・モトーリのレイドの時代 2019年11月1日 - ヴィニチオ・マイス、プッブリマイス | トリノ(イタリア)   プッブリマイスが雑誌ジェンテ・モトーリのディレクター、ジャンニ・マリンからの電話を受けたのは、1975年のいつもと変わらない日だった。 少し前から彼らがオーガナイズしていた、世界中で開催される見応えのあるレイドについて、彼は熱心に私に話をした。フィアット、ランチア、シトロエン、ルノー、プジョー、オペル、ボルボ、スコーダ等の多くのヨーロッパの主要なブランドの車が、エジプトのピラミッド、アマゾンの熱帯雨林、グランド・キャニオン、インカのペルー古代遺跡、万里の長城の様な地球上の有名な場所へ何千キロもどのようにして輸送されるのか語った。それらの美しいが人を寄せ付けない環境で、それらの車は、燃費、耐久性、実際に記録を更新する程の走行距離の面で限界まで走らされた。同時に、そのパフォーマンスを間近でレポートしていたジャーナリスト、カルロ・カーサグランデのお陰で、晴らしい写真が掲載され、雑誌は大成功を収めた。 ジャンニは、次のレイドがメキシコ(そのためカッレーラ・メッシカーナと言う名称で呼ばれた)で開催され、3台のベータ・モンテカルロのグラフィックのために私の助けが必要だと説明した。私は迷わずすぐにそのプロジェクトに参加したいと答えた。  [envira-gallery id="10751"] その電話からジェンテ・モトーリとプッブリマイスとのパートナーシップは始まり、数多くの車両のグラフィックを実現させ、80年代初め頃まで続いた。単に材料を使ってグラフィックを実現させるだけでなく、グラフィックをクリエートする段階にも積極的に参加した。  [envira-gallery id="10765"][envira-gallery id="10772"] その過程はこんな感じだった。友情と理解する雰囲気を作り出せたジャンニは、ミラノからレイド毎にその前夜、イベントの舞台となる国や大陸、車両が走る予定のルートの詳細、既に決まっていればレイドの名前等の主な情報を説明するため私に電話した。毎回レイドが通過する地域の歴史を、何らかの形で思い起こさせる特徴的なデザインを考える必要があった。そのため、ディレクターは、私にアイディアを思いつかせるために、彼自身が鉛筆で描いたスケッチをよく郵便で送って来た。それを基に私は仕事に取りかかり、彼のアイディアを最終的にまとめあげ、完璧な形にした。しばしばオリジナルな要素を付け加えて、殆どの場合、彼に気に入ってもらい、大変喜んでくれた。  [envira-gallery...

Next Weekend 2019年10月1日 - 松澤 俊介 | 東京(日本)   僕らの世代は16歳になるとバイク(中型2輪)免許を取得して、バイトなんかしてバイクを手に入れて乗り回していた世代。 18歳になれば自動車普通免許を取得するって言うのが当たり前だった時代。   [envira-gallery id="10370"] 働きはじめると先輩などから10年落ちの(当時は10年を超えると毎年車検だった)車などを数万円で譲ってもらい、何時かは新車を!などと夢をみていたものだ。   [envira-gallery...

グラン・プレミオ・ヌヴォラーリ 2019年9月1日 - ジョルジオ | マントヴァ(イタリア)     ニヴォラの名の下に   第29回グラン・プレミオ・ヌヴォラーリが9月20から22日まで開催される。   ヌヴォラーリは伝説的な名前である。車のレース好きにとってだけでなく、全ての人にとって。  [envira-gallery id="10029"][envira-gallery id="9749"] 現在は、レースの様子や結果をリアルタイムで見ることが当たり前になっている。テレビ、インターネット、4Gそれに間もなく5Gとコネクティビティから逃れることはできない。しかし1930年代には、何が起きたのかを知るためには、新聞報道を待たなければならなかった。政治が冒険と人々が大胆なことをするのを求めたこの時代、しばしば報道が現実を誇張することが多々あった。  [envira-gallery id="9762"][envira-gallery id="9766"] 誰がどう思おうと、タツィオ・ヌヴォラーリの名は伝説と繋がっていた、伝説でなければ、神秘的とも言える。フロントライトを消した状態や、壊れたステアリングホイールをレンチでコントロールしながらゴールしたり、ドイツでのレースで、アウトウニオンやメルセデスの様なドイツ勢を相手に古いアルファ・ロメオで一人で自信満々に勝利を収めたりした。  [envira-gallery id="10038"][envira-gallery...

叶った夢 2019年5月5日 - ポール|クライストチャーチ(ニュージーランド)   初めてランチアストラトスを見たのは僕が4歳の頃だった。 叔父が日本旅行から帰って来たばかりで、自分の息子にラジコンのストラトスをお土産として買って来ていた。彼は家の中庭で僕と僕の父と一緒にそれで遊んだ。車の見た目が気に入った。そして父は僕にストラトスの模型を買ってくれ、一緒に組み立てた。その時から、ストラトスに夢中になり、いつか手に入れなければと思っていた。17歳の時、ニュージーランド航空で航空エンジニアの見習いとして働き始め、ストラトスを買うお金を貯めるため銀行口座を開いた。 [envira-gallery id="1"] そこで10年働いた後、退職しイギリスに働きに行った。本物のストラトスは高すぎたため、ホークのレプリカのストラトスを候補にあげ始めていた。しかし、イギリスに5年住んだ後、車なしでニュージーランドに帰った。2011年のクライストチャーチの地震直後、人生は短いから買わないで終わることはしたくない、今買うか一生買わないかだと思い、ストラトスを買う決心をした。自分への40歳の誕生日プレゼントだった。 [envira-gallery id="6601"] どのキットを買うかたくさんリサーチし、リスター・ベルと言うかなり新しい製造元を見つけた。ここのキットはホークの物よりも早く組み立てられ、最新式の部品を多く使っていた。古いフィアットやランチアの部品を見つけるのは充分に難しい、それに実際に乗る前にレストアも必要だ。リスター・ベルに2012年の6月にオーダーした。8月に同僚が地元のフィアットのディーラーでストラトスを見たと言っていた。見間違いだろうと思ったが仕事の後で見に行った。彼は間違っていたなかった。サービスマネージャーに見せてもらえるか聞き、写真を撮らせてもらった。本物を見ることができるなんて思ってもみなかったから夢の様だった。実際座らせてもらった時僕は震えていた。 [envira-gallery id="6613"] 2013年10月僕の車が大きな箱に入って僕の家の前に到着した。荷ほどきをし、全てをガレージに運び込むまで4時間かかった。すぐに全ての箱を開け始めた。これはボルトで組み立てていく簡単なキットではなかった。全ての部品は組み立て前に何らかの作業が必要だった。機械の部分はマニュアルはなかったがとても簡単に感じた。たくさんの写真を見れるとてもいいフォーラムもあり、製造元は必要であればすぐに図を提供したり、アドバイスしてくれた。車体は難しく感じた。全てジェルコートだったので、格好よく見える様にするために何時間もかけて紙ヤスリをかけたり、磨いたりの作業が必要だった。 [envira-gallery id="6555"] 全ての行程に4年かかった。恐らく僕が飛行機と同じレベルまで細かい所にこだわったのも一つの原因だと思う。僕の妻は、僕が日曜日にずっとガレージで車の作業をする時間をくれとてもラッキーだった。車を組み立てている途中で娘が生まれた。どれほど車を組み立てるのを自分が楽しんでいたかに、組み立て終わるまで気づかなかった。とても大きな達成感を与えてくれたが、その後虚無感で、どうしていいかわからなかった。これからは運転するだけだ! [envira-gallery id="6570"] [envira-gallery id="6595"] それを運転するのがとても好きだ。道行くほとんどの他の車よりもかなり小さく、ステアリングがとても正確だ。道のどの部分を通りたいと思うその場所に持っていくのがとても簡単なので、風の強い丘の上もとても早く進むことができる。 運転している時に顔がにやけてしまう。注目も浴びる、手を降ってもらえる、写真を撮られる、出会う人たちはそれが何なのかわからない。できるだけ頻繁に運転して、一番風の強い道に向かう。ニュージーランドには風の強い道がたくさんあるからラッキーだ。 [envira-gallery id="6630"]...

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