14 5月 1953, AC Ace プロトタイプ ‘TPL 792’
1953, AC Ace プロトタイプ ‘TPL 792’
場所: アントワープ (ベルギー) | クラシックカー・サービス
走行距離 お問い合わせください
オーナー数 お問い合わせください
エンジン フォード、2600cc、kWはお問い合わせください
トランスミッション マニュアル、スピードはお問い合わせください
カラー ブリティッシュレーシンググリーン、オリジナルのレッドレザーシート、ソフトトップルーフ
価格 お問い合わせください
詳細
この車は珍しいプロトタイプで、初めてのAC AceでありACコブラの歴史の始まりとみなされる。 1953年のロンドンモーターショーの車として披露され、その後グッドウッド、オウルトン・パーク、ブランズ・ハッチ、シルバーストーン、プレスコットを含むイギリス全土でのレースに参戦した歴史を持つ。シャシーAE20は、現存する英国車で間違いなく歴史的に重要な車の一台であり、珍しいプロトタイプとしてミッレミリア、グッドウッド・リバイバルや国際的なコンクールのイベントに最適である。
1953年までにジョン・トジェイロが競争力のあるレースカーを作るという評判は充分に確立されていた。トジェイロの友人ヴィン・デーヴィソンが彼にバルケッタボディーのレースカーを作って欲しいと頼んできた際には、そのモデルが車の歴史を作り、AC Aceからシェルビー・コブラへとつながることになるとは予想もしていなかった。 デーヴィソンのために作らたAC Ace AE20は2017年2月にシミオン・ファウンデーション・オートモーティブ・ミュージアムのAC車の回顧展で展示された。
トジェイロがフェラーリの166MMにインスパイアされて作ったデーヴィソンの車は最初のバルケッタではなかった。最初のバルケッタはクリフ・デーヴィーズによってオーダーされたイギリスでLOY500として登録されたブリストルのエンジンの一台であった。デーヴィソンがレースカーの作り手のコンノートエンジニアリングによる、2.5リッターのリー・フランシス4シリンダーのエンジンを使った車をオーダーする前に、MGのエンジンを使ったLOY501とLOW77の2台の車が作られた。1953年の夏にデーヴィソンの車は納車され、その車の登録番号はLER371であった。
同じ頃イギリスの車メーカーACは、生産ラインを改善するのに時代遅れの2リッターのサルーンとコンバーチブルを補完できる新しいモデルを求めて必死になっていた。トジェイロとAC向けの車のペイントをする一時契約を結んでいたバックランド・ボディーワークスのアーニー・ベイリーがACが再起するにはバルケッタが必要なのではないかと提案した。ベイリーがミーティングをセッティングし、トジェイロはデモのためデーヴィソンにLER371を借りた。
トジェイロのスポーツカーはMCのオーナーのハーロックスに好印象を与えたが、次の重要なステップは、1953年の英国国際モーターショーで参加者の関心を把握することであった。ACはトジェイロのバルケッタを彼らのブースで展示したかったが、もう一台完成させるには時間がなかった。代わりにデーヴィソンからLER371を購入し、取引を上手く進めるためAceの開発するエンジニアのポジションを与えた。トジェイロは車のデザインと全て事を上手く運ばせたことに対して、販売された最初の100台に限り1台あたり5ポンドのロイヤルティーを受け取った。彼はACにもう一つベアシャシーを作ることに同意し、それは必要なフレームジグを作るモデルとして使われた。
トジェイロバルケッタからAC Aceへの遷移では、かつてのデーヴィソンの車は2リッターの直列6気筒エンジンになり、新しくブルーにペイントされTPL792のナンバーが付いた。元のプレキシグラスから金属フレームのフロントガラス、フォールディングトップ、インテリアトリム、そしてトジェイロが好んで使っていたターナーのアルミのホイールはワイヤーホイールに変えられた。このプロトタイプは、モーリス・マイナー由来のラック&ピニオンのステアリングは保持されたが、生産モデルにはビショップカムのステアリングボックスが使われた。
皮肉にもAC Aceはレースカーとは見なされていなかった。車の雑誌でアナリストのジョン・ボルスターがこの車について最初の記事アングロ・アメリカン伝説の真相の中で『レース用の車になるようには意図しておらず、そのような開発も試まれはしない・・。』と書かれていたとACコブラの本にリンゼー・ミルスは書いていた。TPL792は1953年12月にデイリー・エクスプレス・MCCラリーにクリフ・デーヴィスが運転して参戦したため、長い間彼の予想が正しいと証明できなかった。
1954年にデーヴィソンはシルバーストーン・エイトクラブミーティングで彼の古い車でレースする機会があった。恐らくAceの生産のためサスペンションの開発が目的であったと思われる。そこでTPL792は2位を取った。次のオーナーはバージル・デ・マットで、彼は1954、1955年の間に5つのイベントに参加し、3度表彰台に上った。
1956年に車はロバート・“ボブ”・ジェニングスに売られた。彼はブリストルエンジンからAC6に変え運転し、1957年のレースシーズンである程度の成績(ブランズ・ハッチとシルバーストーンも含む)を収めた。Aceプロトタイプはイギリスにとどまり、1980年代にアメリカへ輸出されるまでにさらに4人のオーナーの間を渡った。1970年代にはラッドスピード・レイモンド・メイズを載せた2.6リッターのフォードゼファーエンジンが使われたと言われている。ヴィンテージのレースサーキットで積極的に運転され、その後全体的なレストアがなされた。
このTPL792がなければAC Aceは存在しなかったかもしれない、そしてシェルビー・コブラも。少なくとも、これらの車はオープンスポーツカーの基となったモデルとはかけ離れていたに違いない。
全ての過去の書類、レストアのインボイスは参考書類としてあり。
メンテナンス
全て点検済み、すぐに使用可
不具合
なし
ドキュメント
全ての過去の書類、整備履歴を含むレストアのログブック、インボイス、交換された部品のリストあり。